水流が速く、綺麗に整備されていて驚く反面、昭和の趣が消えてがっかりした。半世紀ほど前は蛇下りと呼ばれ、誰もが立ち入る生活用水路だった。夕暮れの洗濯に集う女の井戸端会議に、好奇心で立ち寄った母と10才だった私はおののいた。
オムレツを焼く母に「パパ達が起きるまで蛇下りで時間を潰したら、白萩のある家が素敵で」と撮った画像を見せると「あなたは懐かしいのね、今の散歩道よ」と笑われた。
私は好奇心から用水路を抜けて、高台の住宅地へ進んだのだった。決して折れまいと心に決め、笑いながらやり過ごす2年間は瞬く間に過ぎた。当初あと半年もすれば醒めて飽きられると、のんきに高をくくっていた私は、見ず知らずの誰を幻滅させて来たのか。
黄色いロープが張られた貯水池の淵に、野イバラの樹を見つけ安堵する。様変わりした住宅街にも、野趣はのこっていた。
当時、大店の屋敷が見おろすようにして建てられたボロアパートとの、落差が凄かった。家賃が銀行振込ではないから、アパート大家から「あの別嬪さんは…」「若者は東北の…」などと、いわゆるよそ者の情報は漏れ伝わって来た。
母は36、裏の店にいた2人の職工は25才前後だったろう。街の勤め人は26才ぐらいまでに身を固めていたので、今の自分にはそう思えて来た。ひとりは精悍な肢体の快活なギター弾き、もうひとりが童顔で口数の少ない格闘派、アパートから通う若者達だった。店のパーキングが通学班集合場所で、趣味や特技の自己紹介があった。
新居の水道工事で断水の間、母はアルミのやかん片手に、裏手まで飲み水をもらいに通った。珍しく、母に頼まれてやかんの水をもらいに行くと、口数少ないほうの職工はハッと眼を見開いてうつむいた。10才児にも(私でがっかりしたんだな)とわかった。
「兄ちゃん元気なかった。ママ、もう36なのに」
「ホホ。結婚したら国に帰るって、親方が言ってた。皆あの店へ修行に来て、親のあとを継ぐんですって」
それが結婚して北に帰るという秋、男は大けがで救急病院に搬送されて、うわ言で母の名を口にしているという。若い女は電話口で困惑し、来るように頼んだらしい。母は「お大事になさって下さい」と答えるばかり。忙しい母は偏屈な親方の店に長居せず、いったいいつ名を知ったのか私は不思議だった。
口達者なほうに名前を訊かれたことがあったのを、運転中に思い出した。
「お父さんは知ってる、きみは?お母さんの名前は?」
母はリハビリ散歩で白萩の高台へ向う度に、思い出すのだろうか。
「あなたが花を1センチに拡大スケッチしたものを、ママが真似して描くから…花弁をピンセットで避けて、正確に雌しべを描いてよ。雄しべの本数が6か7か…なんだか私のやりたい趣味から遠ざかってく気がするけど……またデタラメ描くと、添削で"牧野富太郎先生の図鑑を買え"って叱られちゃう」
そして私の鼻先に、父が買って来た厚切り上ネタ寿司折りを「描くまで食べられないよ」とちらつかせる。両親の前で無心に描いた。
「カッター縦断裂すれば雌しべがより良く…」と母が言いかけたので、逃げた。
谷中生姜とシシトウの天ぷら
トロマグロきゅうりボート
ぬか漬けきゅうり
きんぴらごぼう
丹波の黒豆
バゲットとミニトマト
洋梨マリネ